普天間基地について

 
軽くググったんですが、分からないので質問します。
普天間基地は街中にあるように思いますが、もともとどのような経緯でそこに基地ができたのでしょうか?
街が先ですか?
基地が先ですか?
 
街が先だとしたら、なぜ街中に滑走路と基地を作ったのか。
基地が先だとしたら、なぜそんなとこに家を建てたのか。
 
これに触れた上で普天間基地の在り方について一言もらえるとうれしいです。

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id:opponent No.8

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ポイント40pt

面白いご質問ですが、多くの沖縄県民には、ほぼ常識なのかもしれません。わたしは沖縄県民ではありませんけれども、これまでの方のご回答ではあまりに貧弱ですので、僭越ながら回答いたします。

 

最初にまず結論を申し上げますと、基地が先でした。

 

少し長くなりますが、あらましは次のようになると思います。

 

沖縄戦の真っ最中、沖縄に上陸した米軍が、日本本土侵攻のために急遽作った基地、それが普天間基地の出発点です。

 

ウィキペディアによれば、米軍の上陸は1945年4月1日に上陸を開始しています。短時日に戦線は広がり、4月下旬までの間に首里(現・沖縄市の一部)や現・宜野湾市まで奪われた日本軍は、5月4~5日に普天間地区を含む首里戦線で反転攻勢を試みましたが、大打撃を受けて失敗。それ以後、日本軍がこの付近での継戦能力を失なったため、米軍は普天間地区に日本本土侵攻の出撃基地として飛行場を建設したわけです。戦闘地域ですから住民は避難していたはずですし、仮に避難を拒否して生き残った集落民がいたとしても、収容所送りになったはずですから、この地区に住民は住んでいなかった。つまり戦時中に街はなかった。米軍は残っていた集落の建物を破壊し、耕作地だった部分をも含む土地に飛行場を建設しました。「戦時」であったこともあり、避難していた、あるいは収容所に入れられていた住民から奪った土地に飛行場を設置した。これは国際法上で違法だという声もなくはありません。

 

このようにして出来た基地(飛行場)を英語版ウィキペディアによれば、"Futenma Air Base" (普天間航空基地=米空軍極東空軍所属 - 当時、"Marine Corps Air Station Futenma" 海兵隊所属 - 現在)となったわけです。

 

耕作地とそれを営む住民が大部分でしたから、もともと街と呼べるような地域ではありませんでした。戦前の離島ですので、街と呼べるような地域でもなかった。そこに日本本土侵攻のため、急ピッチで基地(飛行場)を作ったんです。恐らく1945年の5月下旬か6月上旬にはそれなりの飛行場を完成させていたはずです。日本の敗戦はその二ヶ月のちのことになります。

 

さて問題は、基地の周りに人が住むようになった理由ということになりますね。

 

一つは、収容所から出た人々や避難して逃げていた人たちが戻ってきます。集落も畑も残っておらず、滑走路になってしまっている。仕方なく基地周辺の地に住むわけです。難民です。ときあたかも、日本は8月15日に無条件降伏してしまっていますから、"Futenma Air Base" は訓練以外は稼働していなかったはずです。出撃するような戦闘もなく、騒音や基地からの被害はそれほどではありませんでした。また二つ目に、この地域(現・宜野湾市)は沖縄中南部の中心部でもあったわけです。ですから自然と人が集まり、住むようになります。

 

騒音や事故の危険が増大するのは1950年から始まった朝鮮戦争(1950年 - 1953年)と、ベトナム戦争(1965年 - 1975年)の時期からのことです。沖縄は、米国世界戦略の軍事拠点として用いられます。1980年代ごろまではフィリピンのクラーク空軍基地や、同じくフィリピンのスービック海軍基地とともに、普天間基地は米軍の戦略拠点となっていましたが、フィリピンの両基地は返還されてしまったため、沖縄の米軍基地群を米国国防総省はアジア・太平洋(全域)のキー・ストーン(要石 - かなめいし)と呼ばれ、ベトナム戦争後もフル稼働することになりました。

 

ですが基地による被害が少なかった時期に人口が増加するのは自然の成り行きだったということです。沖縄返還(1972年)から返還後にまで及ぶ度重なる米軍兵士の暴行事件など、沖縄の人々は長年苦しめられてきました。一方、基地機能維持のために沖縄の人々を雇用する必要もあり、また基地周辺に広がる歓楽街の維持は、従軍する兵士の娯楽のためにも必要でした。基地周辺のそれら歓楽街が繁盛するという歴史があったんです。人々が食べていくために基地周辺の人口は膨れ上がり、大きな街が形成されてきた側面もあるんです。基地があるからこそ、そんなところに家を建てた、それは食べていくためのお金が必要だったというです。返還前の沖縄は基地に依存する経済だったんです。

 

沖縄返還後は、沖縄県として日本に所属しますから、さまざまな企業が日本から沖縄に進出し、特に人口密集地は本土企業からの資本投下で、ますます人口が膨れ上がります。ですが失業率は日本で最も高いところなんです。まだまだ基地依存の経済から抜け出すことができていません。沖縄の未来は、基地依存経済からどのように脱却し、新たな経済圏としていかに再生するかという視点を持つ必要があります。

 

以上があらましです。とりあえず、ここまでで参照したリンク先のごく一部(街が先か、基地が先かに関する点など)を下記に挙げておきます。抜粋は太字

 

普天間飛行場に関する経緯年表(宜野湾市 基地政策部 基地渉外課)

「米国防長官『普天間移設なければ海兵隊グアム移転ない』  普天間基地は即時無条件閉鎖しかない!」(プロメテウスの政治経済コラム 2009-10-21 20:26:42)

普天間基地は、米軍が『銃剣とブルドーザー』による土地強奪によって市の中心部を基地にしたため、住民は周囲に住居を構えざるを得ず、安全確保のための『クリアゾーン』のない欠陥基地となった

「主張 普天間基地撤去 堂々とした交渉で道筋つけよ」(しんぶん赤旗 2009年10月31日)

米軍普天間基地は、米軍が沖縄占領後に住民を収容所に入れた間に土地・農地を奪って建設し、それをさらに『銃剣とブルドーザー』で拡大したものです。基地返還を要求するのは当然の権利です

「普天間基地、嘉手納基地」視察報告書(岩国市 基地政策部次長・基地渉外課長兼務の山内繁雄氏 2005年11月6,7日)

沖縄戦のさなかに米軍が、日本本土への出撃基地として基地を作り始め、終戦後、銃剣とブルドーザーで住民から強制的に取り上げられたもの

「10・23県民大会と11・13平和行進 普天間基地の県内移設を絶対に許さない」(尾形憲 2009年11月)

沖縄の多くの基地は銃剣とブルドーザーで造られた。普天間基地も5つの集落が押しつけられたものだ

県内どこであっても基地を移すことは許されない。県外、本国に持って帰ってくれと願っている

「普天間爆音訴訟一審判決によせて」(公害弁連ニュース No.159 弁護士・松崎暁史 2008年10月1日)

普天間基地の場合は、米軍が日本本土決戦に備えて、新たに土地を占領し建設したのが始まりであった

強制収容を解かれた住民達はかつての居住地であった普天間基地を取り囲むように集落を形成してゆき現在の宜野湾市を形作る。米軍基地は通常クリアゾーンと呼ばれる墜落事故等を想定した緩衝地帯を基地周辺に設けるのであるが、普天間基地にはこのクリアゾーンがなく基地と住宅地とがフェンス1枚を隔てて隣接する

「普天間基地「移設」問題 閉鎖が政権のとるべき道」(「道しるべ」新社会党の主張 2009年11月10日)

ところで、普天間飛行場は米軍が沖縄戦の上陸後すぐ造った。そこに住んでいた人々は家に帰れず、難民になり、古里である基地周辺に住みついた。ところが、1950年代の新規土地接収によって再び『銃剣とブルドーザー』によって土地を強奪されたのである

「普天間基地の即時閉鎖・辺野古新基地建設反対」(ヘリ基地いらない二見以北10区の会 2009年9月21日)

沖縄に軍事基地が建設されるようになったのは、1943年頃から日本軍が軍事飛行場を建設したのが始まりでありました。そのために『鉄の暴風』と呼ばれた沖縄戦をくぐらされ、そして、米軍占領によって、生産・生活の場を軍事基地に囲い込まれ、古里に帰れずに難民にされました。また、やっと落ち着いたところも1950年代の新規土地接収によって、いあわゆる『銃剣とブルドーザー』で再び強奪されました。そして、1960年の安保改訂に向けて『日本』の米軍地上部隊が撤退したときに、当時『日本』ではなかった沖縄に移駐され現在の状況まで基地が拡大されました。今、問題になっている第3海兵師団は、その時、東富士から沖縄に移駐したものです。復帰後は、日本政府によっての2回の『米軍特措法』の改悪に象徴されるように、米軍が強奪したものを一方的に『合法化』されてきました

太平洋の要石(沖縄県読谷村・読谷バーチャル平和資料館)

 

 

さて、普天間基地の在り方についても一言触れておく必要がありますね。これについては元駐レバノン日本国特命全権大使の評論家・天木直人さんがブログの中で「普天間基地問題は事実を知った上で議論しろ」(2009年10月20日)で述べられているので、引用しますと、

 

 「そもそも普天間の閉鎖・返還は95年の沖縄少女暴行事件後、沖縄で高揚した反基地世論を抑えるための米側の提案だった。

 当時日・米・沖縄間の交渉にかかわった元国土庁事務次官、下河辺淳氏の証言によれば、米国が代替施設として要求したのは、長さ45メートルのヘリコプター発着帯だけだ。

 それが・・・沖縄側の公共事業発注への思惑も加わり、大規模な代替施設案になった。

 軍事的な重要度が低くとも、日本側が提供するのだから、米側が拒否するわけがない・・・

 そもそも侵略部隊である海兵隊は日本の安全保障に寄与せず、沖縄に置く必要がない・・・

 『政府間協定は動かせない』と日米官僚は言うが、オバマ政権はブッシュ政権時に結んだポーランド、チェコとのミサイル防衛に関する協定を見直した。米国自身が協定見直しをしたのだから、日本の新政権が協定の再交渉をするのは当然だ・・・」

 

 普天間返還に対する見返りは海上ヘリポート(ヘリコプター発着帯)だけだったわけです。それが、次には軍民共用空港案が登場して破棄され、現在はV字型滑走路2本案になっているわけです。それは何を物語るか。天木さんは「沖縄側の公共事業発注への思惑」とサラリと書いていますが、軍民共用空港とはとりもなおさず、本土の土建業会社や航空会社など大企業の思惑が見えるような気がします。

 

 SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)の最終報告書(1996年12月2日)が挙げたヘリポート案を代替施設とするのが、最も合理的だと思いますね。

 

 

その他の回答7件)

id:lepremierpas No.1

回答回数1175ベストアンサー獲得回数41

ポイント2pt

戦前、飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。また本島南部の那覇、首里と北部の国頭(くにがみ)を結ぶ交通の要衝でもあり、琉球松の並木道が続いたという。しかし1945年、沖縄戦のさなかに宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により、中頭郡宜野湾村(当時、現宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E5%A4%A9%E9%96%93%E9%A3%9...

id:table

軽くググったって書いたとおり、wikipediaくらいは読んでます。

畑作が営まれるところに街はあったのでしょうか?

当時の地域住民はどれくらいの範囲にどの程度いたのでしょうか?

2009/11/13 23:07:11
id:nokonoko09 No.2

回答回数52ベストアンサー獲得回数0

ポイント2pt

1945年、沖縄戦の最中に牧港飛行場、金武飛行場、ボーロ飛行場、泡瀬飛行場などとともに本土上陸作戦の支援飛行場としてB29用に2400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。1953年には滑走路が2700mに改修、ナイキミサイルが配備された。1960年陸軍から海兵隊に移管(海兵隊は岐阜県と山梨県から移動)。現在は市街地に囲まれており、騒音被害や事故に対する怒りや不安の声も多い。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/futenma/

id:table

軽くググってわかるような内容は読みました。

基地の周囲に街を作り、後から住んだ人が文句を言い出したって認識でいいのでしょうか?

2009/11/13 23:19:13
id:kanan5100 No.3

回答回数1469ベストアンサー獲得回数275

ポイント20pt

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1735.html

1945年の普天間基地です。まわりには民家はほとんどありません。

ただし、接収された集落もあったようです。

>同年6月には普天間飛行場建設が始まり、主に4つの集落(宜野湾・神山・新城・中原)は飛行場建設のために接収されました。

>米軍は基地拡張を目的とした土地の強制接収を県内各地で行いました。1955(昭和30)年には宜野湾村伊佐浜でも土地の強制接収が行われ、そこで暮らす30戸余の住民が強制立ち退きを余儀なくされました。

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/4627.html

こちらが2000年の普天間基地。

県庁所在地那覇市の発展により、宜野湾市はそのベッドタウンとして成長、すっかり住宅街になってしまいました。

1945年当時の人口は、

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2562/2563/2602/27094.htm...

>この沖縄戦では、1944(昭和19)年10月の宜野湾村の人口13,636人に対し26.9%にあたる3,600余の犠牲者が出ました。

ですから、10000人程度。

現在の人口は、その9倍の90,776人(平成18年9月30日現在)です。

 

もともと強制的に接収されたため基地に対して複雑な思いがある上、街が発展してきたのでさらに邪魔になってきた、というところでしょうね。

id:MEI-ZA-YU No.4

回答回数4756ベストアンサー獲得回数767

ポイント20pt

普天間基地のすぐそばの宜野湾小学校を例に挙げると、

基地ができるずっと前(100年以上の歴史)からあります。

小学校があるということはそこにある程度の住民が住んでいたという事です。


公式HPの概要より

http://www.ginowan-okn.ed.jp/~hpginowan-e/

宜野湾市立宜野湾小学校は、宜野湾市の東北部、国道330号線そばの小高い丘の上にあります。

周辺には、校外学習でもよく利用する公園や児童センター、福祉施設などがありますが、

米軍の普天間(ふてんま)飛行場もせまっています。

 宜野湾小学校は、市内で一番古い学校で、1881(明治14)年に設立された中頭(なかがみ)小学校に始まります。

その翌年には、4年制の宜野湾じん常小学校として、旧宜野湾馬場近くに創立され、

以来、100年以上にわたって、宜野湾市の優秀な人材をたくさん育ててきました。


宜野湾小学校の位置関係

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&tab=wl&q=%E6%99%AE%E5%A4%A9%...


基地ができるまで(現在と比べると少ないですがそれなりに住居はあります)

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1843.html

id:chyopper No.5

回答回数416ベストアンサー獲得回数69

ポイント15pt

基地が先みたいですね。

 

1944(昭和19)年9月 

≪米軍上陸前の宜野湾村≫

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1843.html

 

1945(昭和20)年  

≪普天間飛行場≫

http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1735.html

id:azumi1975 No.6

回答回数337ベストアンサー獲得回数16

ポイント1pt

>街が先だとしたら、なぜ街中に滑走路と基地を作ったのか。

住民がまだ少なくて土地の貸借もうまくいって作れる状態だったから。

町も基地もはじめから大きかったわけではありません。

>基地が先だとしたら、なぜそんなとこに家を建てたのか。

建てたものがちだからです。田舎ではよくある話です。

id:dondoko9876 No.7

回答回数1ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

http://tom1944.nirai.jp/?p=472

(↑写真もあります)

戦前、この地域は数集落が点在する、さつまいも等の栽培が行われていた、のどかな農村地帯でした。しかし、1945年4月に米軍による沖縄占領と同時に接収され、米陸軍工兵隊が本土決戦に備えて滑走路を建設しました。 戦争が終結し、避難先や収容所からこの地へ帰郷すると、そこには昔の面影もなく、米軍の前線基地が建設され、立ち入り禁止地域になっていました。その後は基地の周囲に張り付くように、無計画に住宅が建設されました。その結果、いびつな街がつくられ、今日に至っています。強制接収後、数回に渡り基地の形態は変わりましたが、1972年の沖縄返還に伴い、国の提供施設・海兵隊普天間基地として使用されることになりました。沖縄県外の米軍基地がほとんど国有地であるのに対し、県内の基地のほとんどが市町村有地や民有地で占めています。 普天間飛行場も面積の約92%が民有地であり、跡地利用計画においては地権者の合意形成が重要であると考えられています。

(引用終わり)

戦争のどさくさにまぎれて、地権者の同意なしに作られてしまったようですね。

本土侵攻のための臨時基地でしたから、用済みになれば返すつもりだったと思います。

米軍もその後これほど長期に渡って占領状態が続くとは考えていなかったでしょう。

そういう意味では誤算だったはずです。

地元住民にとっては誤算どころではありません。

もともとそこは誰かの土地だったのに取り上げられてしまい、しかも戦災で何もかもなくしてしまったから、ともかく食べるためには渋々でも基地に依存した町づくりから出発するしかありませんでした。

しかしここが日本人のえらい所ですが、いつまでも基地に寄生するのではなく、自立しようと懸命に頑張った結果、今日の普天間市へと発展しました。

発展の結果として、いまは基地が開発計画の妨げになっています。

そこへ持ってきて、日米地位協定による日本側の無権利状態が住民にはしゃくにさわります。

もともとが無理矢理ないきさつで作られた基地ですから、地元は何とか出ていって欲しいと考えているのですね。

米軍も地元とあつれきをこしらえたいわけではありませんが、さりとて狭い沖縄ですから、他に行くと言ってもあてがありません。

辺野古がだめだとなっても、他のどこへ行こうとも問題があります。

朝鮮戦争、ベトナム戦争など、沖縄県民には何の責任もないことで翻弄され、基地のせいで経済発展を阻害されているので気の毒です。

かと言ってどうすればよいのか、私には名案が浮かびません。

どうすればいいのでしょうねえ。

id:opponent No.8

回答回数1876ベストアンサー獲得回数7ここでベストアンサー

ポイント40pt

面白いご質問ですが、多くの沖縄県民には、ほぼ常識なのかもしれません。わたしは沖縄県民ではありませんけれども、これまでの方のご回答ではあまりに貧弱ですので、僭越ながら回答いたします。

 

最初にまず結論を申し上げますと、基地が先でした。

 

少し長くなりますが、あらましは次のようになると思います。

 

沖縄戦の真っ最中、沖縄に上陸した米軍が、日本本土侵攻のために急遽作った基地、それが普天間基地の出発点です。

 

ウィキペディアによれば、米軍の上陸は1945年4月1日に上陸を開始しています。短時日に戦線は広がり、4月下旬までの間に首里(現・沖縄市の一部)や現・宜野湾市まで奪われた日本軍は、5月4~5日に普天間地区を含む首里戦線で反転攻勢を試みましたが、大打撃を受けて失敗。それ以後、日本軍がこの付近での継戦能力を失なったため、米軍は普天間地区に日本本土侵攻の出撃基地として飛行場を建設したわけです。戦闘地域ですから住民は避難していたはずですし、仮に避難を拒否して生き残った集落民がいたとしても、収容所送りになったはずですから、この地区に住民は住んでいなかった。つまり戦時中に街はなかった。米軍は残っていた集落の建物を破壊し、耕作地だった部分をも含む土地に飛行場を建設しました。「戦時」であったこともあり、避難していた、あるいは収容所に入れられていた住民から奪った土地に飛行場を設置した。これは国際法上で違法だという声もなくはありません。

 

このようにして出来た基地(飛行場)を英語版ウィキペディアによれば、"Futenma Air Base" (普天間航空基地=米空軍極東空軍所属 - 当時、"Marine Corps Air Station Futenma" 海兵隊所属 - 現在)となったわけです。

 

耕作地とそれを営む住民が大部分でしたから、もともと街と呼べるような地域ではありませんでした。戦前の離島ですので、街と呼べるような地域でもなかった。そこに日本本土侵攻のため、急ピッチで基地(飛行場)を作ったんです。恐らく1945年の5月下旬か6月上旬にはそれなりの飛行場を完成させていたはずです。日本の敗戦はその二ヶ月のちのことになります。

 

さて問題は、基地の周りに人が住むようになった理由ということになりますね。

 

一つは、収容所から出た人々や避難して逃げていた人たちが戻ってきます。集落も畑も残っておらず、滑走路になってしまっている。仕方なく基地周辺の地に住むわけです。難民です。ときあたかも、日本は8月15日に無条件降伏してしまっていますから、"Futenma Air Base" は訓練以外は稼働していなかったはずです。出撃するような戦闘もなく、騒音や基地からの被害はそれほどではありませんでした。また二つ目に、この地域(現・宜野湾市)は沖縄中南部の中心部でもあったわけです。ですから自然と人が集まり、住むようになります。

 

騒音や事故の危険が増大するのは1950年から始まった朝鮮戦争(1950年 - 1953年)と、ベトナム戦争(1965年 - 1975年)の時期からのことです。沖縄は、米国世界戦略の軍事拠点として用いられます。1980年代ごろまではフィリピンのクラーク空軍基地や、同じくフィリピンのスービック海軍基地とともに、普天間基地は米軍の戦略拠点となっていましたが、フィリピンの両基地は返還されてしまったため、沖縄の米軍基地群を米国国防総省はアジア・太平洋(全域)のキー・ストーン(要石 - かなめいし)と呼ばれ、ベトナム戦争後もフル稼働することになりました。

 

ですが基地による被害が少なかった時期に人口が増加するのは自然の成り行きだったということです。沖縄返還(1972年)から返還後にまで及ぶ度重なる米軍兵士の暴行事件など、沖縄の人々は長年苦しめられてきました。一方、基地機能維持のために沖縄の人々を雇用する必要もあり、また基地周辺に広がる歓楽街の維持は、従軍する兵士の娯楽のためにも必要でした。基地周辺のそれら歓楽街が繁盛するという歴史があったんです。人々が食べていくために基地周辺の人口は膨れ上がり、大きな街が形成されてきた側面もあるんです。基地があるからこそ、そんなところに家を建てた、それは食べていくためのお金が必要だったというです。返還前の沖縄は基地に依存する経済だったんです。

 

沖縄返還後は、沖縄県として日本に所属しますから、さまざまな企業が日本から沖縄に進出し、特に人口密集地は本土企業からの資本投下で、ますます人口が膨れ上がります。ですが失業率は日本で最も高いところなんです。まだまだ基地依存の経済から抜け出すことができていません。沖縄の未来は、基地依存経済からどのように脱却し、新たな経済圏としていかに再生するかという視点を持つ必要があります。

 

以上があらましです。とりあえず、ここまでで参照したリンク先のごく一部(街が先か、基地が先かに関する点など)を下記に挙げておきます。抜粋は太字

 

普天間飛行場に関する経緯年表(宜野湾市 基地政策部 基地渉外課)

「米国防長官『普天間移設なければ海兵隊グアム移転ない』  普天間基地は即時無条件閉鎖しかない!」(プロメテウスの政治経済コラム 2009-10-21 20:26:42)

普天間基地は、米軍が『銃剣とブルドーザー』による土地強奪によって市の中心部を基地にしたため、住民は周囲に住居を構えざるを得ず、安全確保のための『クリアゾーン』のない欠陥基地となった

「主張 普天間基地撤去 堂々とした交渉で道筋つけよ」(しんぶん赤旗 2009年10月31日)

米軍普天間基地は、米軍が沖縄占領後に住民を収容所に入れた間に土地・農地を奪って建設し、それをさらに『銃剣とブルドーザー』で拡大したものです。基地返還を要求するのは当然の権利です

「普天間基地、嘉手納基地」視察報告書(岩国市 基地政策部次長・基地渉外課長兼務の山内繁雄氏 2005年11月6,7日)

沖縄戦のさなかに米軍が、日本本土への出撃基地として基地を作り始め、終戦後、銃剣とブルドーザーで住民から強制的に取り上げられたもの

「10・23県民大会と11・13平和行進 普天間基地の県内移設を絶対に許さない」(尾形憲 2009年11月)

沖縄の多くの基地は銃剣とブルドーザーで造られた。普天間基地も5つの集落が押しつけられたものだ

県内どこであっても基地を移すことは許されない。県外、本国に持って帰ってくれと願っている

「普天間爆音訴訟一審判決によせて」(公害弁連ニュース No.159 弁護士・松崎暁史 2008年10月1日)

普天間基地の場合は、米軍が日本本土決戦に備えて、新たに土地を占領し建設したのが始まりであった

強制収容を解かれた住民達はかつての居住地であった普天間基地を取り囲むように集落を形成してゆき現在の宜野湾市を形作る。米軍基地は通常クリアゾーンと呼ばれる墜落事故等を想定した緩衝地帯を基地周辺に設けるのであるが、普天間基地にはこのクリアゾーンがなく基地と住宅地とがフェンス1枚を隔てて隣接する

「普天間基地「移設」問題 閉鎖が政権のとるべき道」(「道しるべ」新社会党の主張 2009年11月10日)

ところで、普天間飛行場は米軍が沖縄戦の上陸後すぐ造った。そこに住んでいた人々は家に帰れず、難民になり、古里である基地周辺に住みついた。ところが、1950年代の新規土地接収によって再び『銃剣とブルドーザー』によって土地を強奪されたのである

「普天間基地の即時閉鎖・辺野古新基地建設反対」(ヘリ基地いらない二見以北10区の会 2009年9月21日)

沖縄に軍事基地が建設されるようになったのは、1943年頃から日本軍が軍事飛行場を建設したのが始まりでありました。そのために『鉄の暴風』と呼ばれた沖縄戦をくぐらされ、そして、米軍占領によって、生産・生活の場を軍事基地に囲い込まれ、古里に帰れずに難民にされました。また、やっと落ち着いたところも1950年代の新規土地接収によって、いあわゆる『銃剣とブルドーザー』で再び強奪されました。そして、1960年の安保改訂に向けて『日本』の米軍地上部隊が撤退したときに、当時『日本』ではなかった沖縄に移駐され現在の状況まで基地が拡大されました。今、問題になっている第3海兵師団は、その時、東富士から沖縄に移駐したものです。復帰後は、日本政府によっての2回の『米軍特措法』の改悪に象徴されるように、米軍が強奪したものを一方的に『合法化』されてきました

太平洋の要石(沖縄県読谷村・読谷バーチャル平和資料館)

 

 

さて、普天間基地の在り方についても一言触れておく必要がありますね。これについては元駐レバノン日本国特命全権大使の評論家・天木直人さんがブログの中で「普天間基地問題は事実を知った上で議論しろ」(2009年10月20日)で述べられているので、引用しますと、

 

 「そもそも普天間の閉鎖・返還は95年の沖縄少女暴行事件後、沖縄で高揚した反基地世論を抑えるための米側の提案だった。

 当時日・米・沖縄間の交渉にかかわった元国土庁事務次官、下河辺淳氏の証言によれば、米国が代替施設として要求したのは、長さ45メートルのヘリコプター発着帯だけだ。

 それが・・・沖縄側の公共事業発注への思惑も加わり、大規模な代替施設案になった。

 軍事的な重要度が低くとも、日本側が提供するのだから、米側が拒否するわけがない・・・

 そもそも侵略部隊である海兵隊は日本の安全保障に寄与せず、沖縄に置く必要がない・・・

 『政府間協定は動かせない』と日米官僚は言うが、オバマ政権はブッシュ政権時に結んだポーランド、チェコとのミサイル防衛に関する協定を見直した。米国自身が協定見直しをしたのだから、日本の新政権が協定の再交渉をするのは当然だ・・・」

 

 普天間返還に対する見返りは海上ヘリポート(ヘリコプター発着帯)だけだったわけです。それが、次には軍民共用空港案が登場して破棄され、現在はV字型滑走路2本案になっているわけです。それは何を物語るか。天木さんは「沖縄側の公共事業発注への思惑」とサラリと書いていますが、軍民共用空港とはとりもなおさず、本土の土建業会社や航空会社など大企業の思惑が見えるような気がします。

 

 SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)の最終報告書(1996年12月2日)が挙げたヘリポート案を代替施設とするのが、最も合理的だと思いますね。

 

 

  • id:table
    みなさん、ありがとうございました。
    特にopponentさん、しっかりと濃い内容ありがとうございます。

    自分の浅薄な考えを反省します。
  • id:opponent
    >自分の浅薄な考えを反省します。
     
    いえ、反省しなければならないのは大手マスコミです(笑)。
     
    現在の日本政府にとって、普天間移設が外交の焦点になっているいま、基本的な知識すら持ち合わせていない本土の人間に対して、詳しい解説記事や特集で整理する必要があるのに、ほとんど解説記事も書かずに外相や官房長官、防衛相、首相、県知事らの発言を断片的に垂れ流すだけのマスコミは猛省すべきだと考えています。普天間基地の歴史、返還交渉の経緯、現地の意見、それらを丁寧にまとめなければ何の判断もできるわけがありません。「面白いご質問」と申し上げたのは、そんな意味合いをも含めたつもりです。
     
    『沖縄タイムス』や『琉球新報』は、連日一面トップで大きく取り上げているうえ、イラストを多用した見開き2面の特集記事が何度も登場し、時々図書館で読んでおりますが、本土の大手マスコミは何の説明もしていません。これはたぶん断片的な記事を垂れ流す記者自身、何の知識もなく背景事情すら知らずに記事を書いているからだと思います。マスコミが目を向けているのは、米国との関係だけなんでしょう。沖縄県民がどうなろうと知ったことではない、と言わんばかりです。普天間基地って何だ、ということを抜きにした発想で考えても仕方がありませんね。
     
    ご質問を拝見した瞬間、これまでに沖縄関連の書物を、20冊以上読んでいたため回答すべき内容はだいたい分かったのですが、「だいたい」では困るので出典とすべきリンクを探すのにちょっと手間取りました。
     
    種明かしになりますが、最終的に検索していて最も有効だった検索語は『普天間 (AND) 銃剣とブルドーザー』でした。それは、普天間基地の歴史を知るのに「銃剣とブルドーザー」という用語が、1950年代の新規土地接収という歴史的事実を含む検索語になるからです。
     
    ちなみに、回答を執筆していて気がかりだったのは、基地移設後の普天間の巨大な土地についてでした。沖縄が返還された時に本土の大企業は一斉に沖縄を蚕食して大儲けしながら、現地沖縄の人々には何の見返りもなかった事実があるからです。だから今でも失業者が多いわけですね。今回も大企業が買い占めてしまうのか・・・と。沖縄戦の時に土地を強奪された元住民の多くは、これまで地権者として賃料をもらいながら食いつないできたわけですが、大企業に買収されたら、わずかな賃料すらもらえなくなってしまいます。沖縄は日本の大手企業の植民地なのだろうか・・・と。
     
    そういうことまで考えさせていただけた、よいご質問でした。素直で素朴なご質問だったと思いますよ、「浅薄な考え」とか「反省」だなんてとんでもない。ゴミのような記事を大量に垂れ流しして知らんぷりしている本土の大手マスコミこそが反省すべきだ、と思いました。
  • id:maxpower
    こちらも少しは参考になるかと思いますよ。
    http://tanakanews.com/091115okinawa.htm
  • id:opponent
    普天間基地返還後についての指摘がありましたので、一部引用しておきます。

    http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/articles/ippituhuran/20091211-779.html
    沖縄県民はもちろん本土人も「米国属国」の被害者であることを忘れてはならない(週刊金曜日、「編集長ブログ」2009年12月11日、執筆: 北村肇)
    「しかし、よしんば県外移設が実現したとしても、それが即『沖縄問題』の解決につながるわけではない。基地撤去後の沖縄をどうするのか、その戦略がなければ本質的解決はありえない。本誌今週号で詳述したが、沖縄の基地問題には常に地元建設業界の利権がからむ。当然といえば当然。沖縄県の経済が基地の上にのっている事実は隠しようがないのだ。だから、そこに利権が生まれるのは避けようがない。だが、政治家や官僚だけではなく『革新的知識人』の中にも、この実態を見て見ぬふりをする人がいる。『被害者』には清く美しくあって欲しいという、身勝手な気分があるからではないか」
  • id:opponent
    http://d-navi.org/node/159
    宜野湾市長伊波洋一さんインタビュー

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