匿名質問者

住民税は、住民票での住所に基づいてると思いますが、住民票がなかった頃は、住民税はどうやって国民たちに課していたんでしょうか。昔は、入寄留簿というものがあったようです。


そもそも、都道府県民税と市町村税がいつから始まったのか、ググったところ、よくわかりませんでした。

*:ちなみに、明治時代の最初の頃に地租改正というがありましたが、
  これは、土地の所有者を定めて、そこに課税したということですから、
  今の固定資産税のような印象を受けております(市町村税です)。

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  • 終了:2024/03/15 21:00:07
匿名質問者

質問者から

匿名質問者2024/02/22 21:32:17

明治6年に地租改正にかかる太政官布告が公表されて、翌年から役所では、これを実施する作業に入ったみたいですが、作業は明治13年までかかったようです。よって、足かけ7年かかったことになります。

実際に課税したのは、

そして、税納付を受けたのは、いつかよくわかりませんでした。


なお、地租改正は、国税だと思っていましたが(学校で習ったとき、そういう風に理解していました)、しかし、「明治8年に、国費に充てるものを国税、府県の費用に充てる租税を府県税と呼ぶこととした」という記事を見つけてしまい、自分としては混乱しております。ただ、この時の府県税は実行には移されなかったのかもしれませんが(反対が多くて?)。

 なお、

  明治21年になり、

    国税である所得税を踏まえて、市町村が附加税を、

  明治41年になり、

    国税である所得税を踏まえて、府県が附加税を

 課税できるようになったようです。

 しかし、当時は、住民票は存在しません。

回答1件)

匿名質問者

質問者から

匿名質問者2024/02/22 23:09:23

質問文を編集しました。詳細はこちら

匿名回答1号 No.1

現在の日本の戸籍制度ですが、実は世界でも珍しい「人」ではなく「家」を単位とした制度です。

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsl1951/1956/7-8/1956_7-8_1...

 

最初は明治政府によって中央集権を進めるため徴税と徴兵のために整備されたようです。

当時は幕藩体制から中央集権への移行期でした。

当時の人口構成は大部分が農地に縛られた農民でした。

地方の政権から徴税権や徴兵権を奪うために、個々の人よりも扱いやすい、土地に根付く家を住居として基本的な単位としたようです。

 

幕藩体制の頃は主に「検地」の結果によって「土地」への課税ですね。

人は土地に縛られていますから、年貢を納めさせるための人別帳とかです。

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匿名回答2号

いやいや明治期に人を大事にしなかったというストーリーはGHQ(+NHQ)史観に依りすぎです。あくまで人が食べていくための手段プロセスとしている方法の違いです。100年前は人権意識が浅かったなどというストーリーは欧米でこそ適用される噺に過ぎません。

2024/03/04 07:15:12
匿名回答1号

壁だな。

2024/03/05 22:28:03
  • 匿名回答1号
    匿名回答1号 2024/02/24 02:00:05
    現在の常識ではなく当時の社会を考慮して意味を考えなければ歴史は理解できないでしょう。
    当時は食料は人を養う基本単位であり、米俵一つで人が一年食べていける、つまり一年分の人一人と価値が同じだったわけです。
    食料が足りなければ子供や女性が売られるとかも当然ありました。
    売らなければどうなるかというと家族の中で餓死する人が出るわけです。
  • 匿名質問者
    匿名質問者 2024/02/26 14:43:02
    有難うございます。農民の収入は、基本的には、地主が年貢として集め、そこに土地税として国が課税するというわけですね。よって、農民の収入の年ごとの多寡は、国としては気にしなくてよいわけですね。地租は、一種の定免法であり、それが土地所有者に課される。
    他方、現代の所得税は検見法のようなものです。現在の住民税は、所得割が主体であり、まさに検見法のようなもので、均等割りは人頭税かな、と思います。

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